「日本列島を往く <1> 国境の島々」 鎌田 慧 岩波現代文庫 2000

2013年10月18日 14:05

1979年、沖縄県は石垣島東部に位置する白保集落の沖合の海を埋め立てて新石垣空港を建設する計画を発表した。この新石垣空港は今年3月に開港し話題をよんだが、その位置は白保集落沖合ではなく、白保北部の陸上にある。白保集落の住民達を中心として、美しい白保の海の埋め立てを回避すべく、反対運動が巻き起こった結果、計画予定地が海上から陸上へと変更されたのだ。このことは日本だけではなく世界的にも注目され、著者の鎌田氏は白保集落の住民の生の声を聴くために、実際に石垣島へと足を運ぶ。白保集落の住民の口から語られるのは、海へ対する強い想いだった。昔、耕地の少ない波照間島から生活の場所を求めてサバニに乗って白保へやってきた祖先達を見守ってきた海、戦時中の食糧難の時代に命をつなぐ為に獲った魚、戦後空襲によって崩壊した家々を復旧する際赤瓦の漆喰として利用したサンゴ・・・。白保集落の住民は海と共に生きてきたのだ。その海を埋め立てて、新石垣空港を建設することは住民にとっては許せないことだということは容易に想像できる。しかし、鎌田氏は住民が空港建設に反対するもう一つの理由に気づく。それは戦争の苦い記憶である。戦時中、石垣島には3つの軍事飛行場が建設されたため、酷い空襲を受けた。さらに、千人墓と呼ばれる祖先の霊を祭る場所から骨を取り出し、その場所に日本軍の防空壕を作らされ、祖先の骨は軍の人達によってどこともなく持っていかれてしまった。祖先を大事にする沖縄の人たちにとって、このことは大きな怒りを生んだ。また、空襲やマラリアによって引き起こされた家族の死や、特攻隊として帰って来ることのない空へと飛び立っていく青年たちの姿など、白保集落の住民の心の中には、戦後30年以上経っても戦争の記憶が色濃く残っていたのだ。その白保に新石垣空港が建設される。そして滑走路をV字に配置する計画が、新空港が軍事的に使われるのではないかという住民達の不安の種となったのだ。新石垣空港の建設予定地が海上から陸上に移ったことで、新石垣空港建設問題に休止符が打たれ、世間の注目も次第に薄れていった。しかし場所が変わったところで、V字滑走路であることに変わりはなく、白保集落の住民一人一人の心の中にある戦争の記憶は無視されることとなった。新石垣空港ができたおかげで、観光客がより足を運びやすくなったのは事実だが、その裏にある戦争への想いを忘れずにいることの大切さを感じさせてくれる一冊となった。(外間香織)

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